キリスト教の狭量さ

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200908080083.html
単純に日教組のように反日教育したいというのであればまだましで、宗教を持ち出して信教の自由に反するかのように伝えるのは、なんと狭量なのか。
私はそう思う。


友人が仏門であれば葬儀にも参加しないし墓参りもしないというくらい乱暴な話である。


まぁ、実際そういう人もいるのかも知れないが、やはりそれは狭量だと思う。
クリスチャンでありながら靖国神社に参拝する麻生太郎を見習って欲しいものである。


まぁ、先の記事は国歌をどうしても許容できない朝日新聞ならではの特殊な例であるが、それでも基本的にキリスト教圏は狭量だと思う。


イスラム教圏では戒律が厳しく、肌の露出が多い通常の水着などは女性は着る事ができない。
しかし、通常の水着を着る他国(他教徒)を非難することは余りないと思う。
(勿論、自国内でやれば話は別だろうが)

http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/mixnews/20080402ok03.htm
一方で、キリスト教圏は、ブルキニの登場で海水浴などを広く楽しめるようになったイスラム女性を排除しようとする。


同様に、ヒンドゥー教では牛が神聖な動物として崇められているが、他国の食牛文化にケチをつけることはない。


A6ニュース(゚Д゚) : 「日本の漁師が、イルカを虐殺…むごい秘密が暴かれた」 隠しカメラで撮影された映画公開、米で日本の行為批判
しかし彼らは他国の食文化にもいちいちケチをつける。
食べるべきではない、と。


要は「自分のところではこうする」という事実に対して、キリスト教圏だけが「だからお前もこうしろ」と口を挟むことが多いということである。


もちろん、それをわきまえ、余計な口出しをするべきではないと諫めるものが、キリスト教圏にいる訳で、本当は十把一絡げにしたくはないのだが。


それでも、やはり狭量といいたくなる。


韓国で犬料理があったとして、私がそれを食べたいかというとNoだが、だから彼らに食べるなとは言わない。


本来はそれが自然なのではなかろうか。